20180805-0808上高地〜奥穂高岳、探勝してドン勝

山と渓谷の5月号を見てからというもの、上高地にいきたくて仕方がなくなってしまった。



上高地は長野県の西側、岐阜との県境近くにある、北アルプスに囲まれた盆地だ。素晴らしい景観を揃える避暑地である。北アルプスには行ったことがない。しかし私の夏山は往々にして圧倒的曇り、今回もきっと台風だろうから、山に登れなくても、上高地にさえ行ければそれで良かった。

当日が近づくにつれ、台風の狭間で晴れることがわかってきた。山に呼ばれている。それならば、穂高に登ろう。神保町さかいやでヘルメットとサブザックを買い足した。3泊4日。食料もすべて担ぎ上げることにしたので、バックパックは水を抜いて15.5kg。冬山かよ。3か月ぶりなので家から駅までの道で心が折れかけ、引き返す。郵便受けを開け、あまり使わないであろうペグを少し減らすことにした。

初日、上高地バスターミナルに着く。上高地バスターミナルのトイレ前でのこと、案内員のおじさんを捕まえて「すいません!急に呼び出されてこれから山に登るんすけど、道具一式ってどこで売ってますか」って無鉄砲が早速出迎えてくれた。時刻は朝6時前。閉口するおじさん。絞り出した一言が「ま、松本...」。

階段に腰掛け、おにぎりを三つ取り出す。朝食を食べてから、水や荷物を整える。初日は涸沢まで向かう、さあやるぞ。

しかし、景色と空気で既に勝ちが決まっている。体力なんてパッキングでカバーだ!と息巻くものの、カリマーのクーガーはかっこいいパッキングが難しい。どうしてもサイドに膨らんでしまうところがまだまだトーシロ丸出しだ。

地図とコンパスを持って歩くことが好きだ。それでも、どれが奥穂高なのかよくわからないまま、上高地を抱く穂高の山脈を巻くように、梓川の脇を遡上していく。せめて気持ちだけは軽快に。しゃなりしゃなりと歩けよバックパック。30匹近い猿の群れやちょこんと可憐な高山植物はもちろん、昆虫や風ですら、自分に向けられた歓迎や声援に聞こえてくる。ひらひらと先導してくれる高山蝶を見ては、山への感謝をささやく声で口にする。その度に、木漏れ日や風の清々しさとは似合わない、心地よい厳かさを皮膚に感じる。慈しむものだけに訪れるこの涼しくなる皮膚感は、お盆前だからか、お墓参りの空気と相似だ。ご先祖様はこんな素敵なところにいるのだ。

横尾から先、特に本谷橋から涸沢までは長かった。楽しくないときは糖分が足りていない。行動食をドカドカ食べる。なるべく視界を上にあげようと試みる。しかし涸沢ヒュッテが見えてからの一時間は、もうへとへと。途中から一緒だった家族連れと無言の連帯を感じる。顔つきに表れる残りのHPがぼくらを結んでいるのだ。100lのザックを担いでいる父親もいれば、75lのザックに加えてバテた母親の60lザックを持つ父親もいた。キン肉星の超人かよ。北アルプスにはヒーローが多すぎる。加えて、母親に「自分のペースで先に行きな、おれは景色を楽しみながらゆっくり行くよ」と強がりを言っているわけだ。元気をもらわないなら嘘だ。山男のかっこよさを見た。おれは心身ともに筋肉が足りねえ。山をやらない人に伝えたい、山にはこんなにかっこいい山男がいるのだ。

なんとかヒュッテに着くや、フラフラしながらカレーライスを注文。自炊する体力は登山道のおちこちに落としてきた。正直ヒュッテの水は期待していたほどはおいしいとは思わなかったが、とにかく一口目のコーラがうめえ〜。さいこうかよ。寿司屋のコーラと山のコーラはドラッグみたいだ。

一休みしてから、テント設営。この日はほとんど客がおらず100張り程度、今夜の1R、土地は選び放題だった。テントの前で明日の奥穂高までの道を地図と照らして確認する。あそこが取りつきか。ここから見るとたいしたことがなさそうだ。登っていくイメージを膨らませる。

風が変わったと気づいた頃には、いつのまにかただ山と空を眺めていた。空白に気づく瞬間が好きだ。なにもせずに過ごす贅沢。岩の上で昼寝をしてみる。突然、ヘリが谷側の岩場へ飛んだと思えば、すぐに帰ってくる。不思議に思っていると、看板の死者数がひとつ増えていた。ご飯を食べる。夜中、テントの入り口から寝袋にくるまりながら頭だけ出してみると、満点の星空。15分ほど、そのまま過ごした。ナイスネイチャー!完璧な一日。

二日目、朝から奥穂高に向かう。荷物を置いてサブザックで行動。軽い。昨日とは足取りがちがう。のそりのっそりからしゅぴんしゅぴん。気持ちは雷神ステップで登っていく。実際は身体に馴染ませるため、取りつきまでの道は、意識してゆっくりと進んだ。ザイテングラート(支尾根)に差し掛かると、手袋を取り出す。いくつかの鎖場を経て、(おそらく北アルプスではやさしめの)岩稜地帯。下りの人と声を掛けながら登る。それでも人が少ないので、ノンストレス。途中食べた羊羮がうまかった。

穂高岳小屋のコルまで来ると、ここからが本番。トイレに行き、レインウェアを準備した。核心部とも言える小屋直上の鎖場とはしごを越える。登山歴4年程度の初心者なので、とにかくいのちを大事に、慎重に。「三点支持、足場を確実に、浮き石注意」をひとつひとつ確認しながら登る。私の短所は調子に乗ることなので、収縮運動して喜ぶ心を落ち着かせて進んだ。まさかという浮き石の怖さを何度か味わう。行きはヨイヨイ、帰りは怖い。それを知っていても、もうこの歩みを止めることはできない。

山頂までの道を振り返ってみる。涸沢岳の先に槍ヶ岳も見えてくる。その景色をご褒美に、登り詰めた。山頂。まったくガスがない。吹き抜ける風、震え出す心とは裏腹に、とても静かだ。これほど晴れた日がかつての遠征であっただろうか。山に歓迎されていることを噛み締める。遠くから見れば、いまこの瞬間だけは、私も山の一部なのだ。山頂で一緒になったおじさんとつかの間の山座同定を楽しみながら、幸運と嬉しさを共有した。八ヶ岳も富士山も見える。ずっとここにいたいような気もするし、降りてしまいたい気もする。決勝で会おうとかつて誓った友人は、いま、彼の決勝に向かっているのだろうか。ぼくはいま、決勝に勝ったのだ。山頂で話した方から、まだ9時なので、と前穂高まで一緒に往復することを提案されたものの、初心者なので計画を変えたくなく、またこれ以上を望めばバチが当たりそうな気がして、丁重に断った。

40分近く楽しんだ後、下山を始めた。とにかく慎重に、基本に忠実に。下りながら考えられることなどひとつもない。とにかくこの一歩をどこに置くか。一歩をこれほど考える瞬間など、他にないだろう。没頭していくと、自分だけになり、いつしか自分も消える。そして再び自分が現れる、あの一連の瞬間が好きだ。

最後の核心部。登る人と降りる人で声をかけつつ、なんとか下りきった。安心して気を抜かずに、少し休憩して再び下る。途中何度か、落石の乾いた音が涸沢全体に鳴り響いた。振り返ると、人は蟻のように壁に張り付いていた。

山を降りる。昨日も向こうの岩場で人が死んだ。不動に鎮座する山のなかでは、岩が落ち風が吹き、木は朽ち、人や動物や虫も等しく死んでいて、こんなに移ろいゆく存在の総体としての山を思うと、一層、目の前の山が気高く荘厳に思う。なぜ山は山で居続けられるのだろう。山とはなんなのだろう。矛盾を内包するこの不思議を思った。

ひょんなことから出会った人たちと、下山後お酒を交わした。ある出来事を通して、自身の山に対する気持ちが試された気がして、いまだに正解はわからない。割りきれない思いに√(ルート)を被せて、家族連れのこどもたちとババ抜きや絵しりとりで、文字通り日が暮れるまで遊んだ。

3日目。今日は徳沢まで下る予定だ。どうしても食べたくなったので朝食はヒュッテの醤油ラーメンをいただく。ズルズル、どうもー、おれでーす。ただの中華そばなのに、あまりに澄んでいて、うめえうめえと何度も口にして完食完飲すすりきった。ごっそれい。そろそろ行くかと遅めのスタート。17kgを担ぐのはなかなか膝に来る。重心をぶらさないように、強力さんの前ならえスタイルで歩くが、高い段差に耐えきれずストックを出した。登山でしか来れない場所があるし、登山でしか見れない景色があるし、登山でしか辿れない思いがある。と思う。少し大袈裟にも感じるが、おおむね本心だ。

徳沢に降りる頃には、足の裏に疲れがきていた。しかしお昼に野沢菜チャーハン、ソフトクリーム、炭酸ジュースで大勝利(チャーハンのお吸い物と七味でドン勝)。フリーズドライには正直飽きてしまったよ。自分の人生において、おいしいものを食べることについては、譲れないなにかがある気がする。今後の山旅の宿題ができた。日常から研究が必要だ。野沢菜チャーハンを食べ終わった頃、なんの因果か初日の無鉄砲な若者と遭遇した。登山シューズは履いていなかったものの、ザックとヘルメットは買っていた。ちゃんと登山ショップに向かってくれたようでひと安心。案内員のおじさんも少しは報われたのではないか。しかし果たして山は彼を受け入れてくれるだろうか、というのも翌日の夕方からは台風予報なのだから。夕方、温泉に入り、よくよく眠った。

4日目。朝食にフリーズドライを試みたものの、どうしても受け付けない。こうなったら欲望に忠実に。小屋のはちみつトーストをいただいた。テントを撤収後、とにかく散策。さいこうさいこう。足の裏の痛みは続く。突然、明神池でカメラが壊れる。ザックにぶつけたようで、レンズが出なくなってしまった。沈む心を持ち上げてくれた岳沢湿原のナイスネイチャー。あの場所が、ここ4日間で一番の景色だったかもしれない。カメラで撮れなかったのが唯一の心残りだ。次回来るときには、大正池や岳沢をメインに据えよう。

バスターミナルの2階でサーモン丼を食らう。久しぶりの生肉。茎のわさびも刺身もめちゃくちゃうめえ。おみやげを買うが、おしゃれなものなどひとつもない。しかしそれでいいのだ!長野は米をうまく食べるためのものがあまりに恵まれ過ぎている。完全試合で優勝!

ベンチで荷物の整理をしていると、2日目に出会った家族連れと再開。ホテルでともに温泉に入り汗を流す。バスではなかなか眠れず、台風直撃の道を帰った。目の前に完璧な半円の弧を持つ虹が現れる。虹のトンネルに向かって高速道路が伸びていく。後ろには太陽。映画のラストみたいだ、とひとりごちる。新宿で子どもたちと別れ、台風直撃のなか帰路についた。