豆腐屋さんの天井

土曜日、6時過ぎに目が覚めた。お風呂に湯をため、その間に靴磨きをした。スマホの画面ですらほんとうにきれいにするには何往復も磨かないといけないのだから革靴だったら少なくとも10分くらいはかかってしまう。ブラシをかけ、布にデリケートクリームをつけて3足で30分程かけて磨いた。革靴ですらこんなに時間がかかるのだから人を磨くのにはもっともっと手塩にかけなければいけない、なんてことばは借り物のように響く。実感が伴わないことば。

朝からお風呂に浸かり、入浴剤なんて入れてゆっくりと過ごした。お風呂から出ると時おりベッドをごろごろした。この日はずっとceroの1stやうつくしきひかりを交互にかけていた。洗濯と洗い物をする。2年半以上使った洗濯物干しがついに壊れてしまったので朝食のパンを買いに行くついでに、ドラッグストアで新しいものを買った。母親から連絡があり冷凍食品やお歳暮を分けてあげるとのことでありがたやありがたや。車のなかでしばし近況を聞いた。帰省中に父親が倒れてしまったらしく、結局たいしたことはなかったと言うが、話ぶりからそのときは不安だったにちがいないと思い、大変だったね、と声を掛けた。兄への不満が溜まっているようで、話を聞き一緒に笑った。久しぶりですこし気恥ずかしかった。

先日両親にメールで「この世界の片隅に」が面白かったと勧めた。ちなみにぼくの父親は団塊で、すこしレイシストの気がある。すこしもへったくれもないのだけれど。初めて気づいたのは中高生の頃。2ちゃんねるのくそネット右翼どもや無責任な週刊誌、テレビタックルなんかのゲロメディアに影響されて血がたぎってしまったのか、中国人や韓国人に対してヘイトなところがあると知った。いつだったかたけしがヘイトを煽るコメントしてたときに「ビートたけしは結構的を射たこと言うんだよ」と神妙に言ってて、喧嘩になりかけた。話をしても噛み合わず、こちらはイライラするばかり。それまで大きな存在だった親が差別寄りだと知ったときの思春期、その気持ちを想像してくれたら。人間は憎むものに近づくらしいので自分もそうなることを恐れている。でもおれはそんな状況がつらかったみたいな甘えた話をしたいわけじゃない。親の嫌なところなんてどの家庭でもひとつはあるものだから。とにかく。いまのぼくは、面と向かって話すことはしがたいので、できればこの映画を夫婦で見てほしいと思った。回りくどいやり方しかできないな。

そういえば最近、じぶんが高校生の頃の家族についてよく思い出す。ぼくは3年間、塾の自習室に毎日通い、毎日のようにコンビニで味だけついたカスカスなお弁当を買っていたので、おそらくあの頃、家計はたいへんだったのではないか。溜まったレシートを見せてお金をもらうときの母親の顔を思い出しては、いまならもう少し工夫ができるのではないかと自責の念に駆られてしまう。勉強してるのだからそのお金は出してほしい、なんて腐れ外道な口を利いていたので過去に戻ってヤングおやくざさんをぶっとばしたい。高3の時には塾に年間100万円近く払っていただろうし(先生の計らいで通常よりは安かったが)、大学受験も15個は受けた。それだけのお金があれば、母親も父親ももう少しじぶんのことにお金を使えたのかもしれないのに。そんなに自由にさせてもらえたのだから別に貧乏だったわけではまったくないのだけれど(もちろん金持ちとは言えない)。約5年働いてみて、いまならそれだけの金を稼ぐことがどれだけ心身をすり減らすかよく分かる。道を歩きながらそんなことを思い始めると至らなさに死にたくなるので、なるべくいま出来ていることを数えるように考えを改める。はい家賃払ってるからおっけー。今日は風呂掃除までしました。まる、まる、まるを書こう。高校生の頃はとにかく勉強がしたかったので、やりたいことをやりたい環境でさせてもらったことに、ほんとうに感謝している。たとえレイシストだとしても、こんなふうに育ててくれた父親なので一部を除き尊敬している。

それからまたしばらく、家で音楽を聴いて過ごす。窓をあけ放つ。心地よい。途中でふと思い立ち、青葉市子とharukanakamuraの限定100枚CD「流星」を掛けた。この音源は2012年の七夕に行われた企画で発売された音源で、ライブ自体もほんとうに丁寧で心がカーっと熱くなるものだった。隣の席にいたカップルの顔も、帰り道に永福町の商店街を歩いた気持ちも、駅前のラーメン屋で食べたラーメンが量が多くて器が熱かったことも忘れがたい。音源もまた限定100枚にするにはもったいないほどに素晴らしい出来なのだ。改めて聴いてもやはり色褪せることがない。ぼくにとって青葉市子のベストはこの流星だ。

15時を過ぎた頃、棚から遠藤周作の「深い河」を取って散歩に出た。なにも決めずに街を歩くことが一番楽しいしぼくの休日のもっとも頻度の高い過ごし方だ。駒込霜降商店街を進む。酒屋でワインと日本酒で迷った末に谷川岳を買い、100均で靴用乾燥剤を買った。八百屋では柿やアボカドが50円で売っていたので長蛇の列ができている。このお店はほんとうにいい店だな。大きな大根も一本75円。安い。百塔珈琲に入り「深い河」を読んだ。ぼろぼろと泣いた。ひさしぶりにページをめくって読書をしている。紙に対してあえて垂直に正対せずに、縦書きを下から鋭角にずらして読むと、遠近法も手伝って文字とともに世界が立ち上がるような気がした。鋭利なのにやわらかい光が射す、ここには世界のほんとうらしいこととぼくらの抱える底冷えするような空虚さが救いをもって書いてある気がするのだ。原爆が落ちる数百年も前に宗教にまつわる十字を既に背負ってきた長崎だ、そこで生まれた彼だからこそ書ける作品だ。学生の頃からもう何度も読み直しているのに必ず刺さる。ふとした瞬間にページから目をはずし商店街を歩くひとの動きや、やわらかい雰囲気の女性店主が珈琲を淹れる所作を眺める。そうか、小説は自分のペースで読むことができるのだなあ、と良さを発見した。

最近、ある同僚と飲みに行き、その日から憑き物が落ちたみたいに鬱屈した気持ちが軽くなった。繁忙期を抜けたこともあるが、あの酒の席で、お互いの心根を見せ合うことができた気がした。ほんとうの気持ちを伝えると、心の根っこと根っこが触れる瞬間がたまあにあるように思う。ぼくはあの同僚を大切にしなければいけない。大切にすべき関係性を粗雑に扱うのは甘えなのだと認識しなくてはいけない。

帰り道、ダウンジャケットを着込み、商店街を歩いて抜ける。自転車に乗ってすれちがう主婦たちがなぜかみんな良い顔をしている。店じまいする豆腐屋さんの天井が、嬉しくなるくらいの湯気で覆われていた。