ごまかせないほどの好きを大切にしていれば

「中川理沙(ザ・なつやすみバンド)、藤原亮(フジロッ久(仮))、yojikとwanda」のライヴを見に、神保町試聴室へ行った。

開場までのすこしの間、同僚とカフェでお茶をした。このブログを書いているということを初めて伝えた。店内が寒かったので開場までにすっかりからだが冷えてしまった。さむいさむいと言いながら手先をもんで椅子に座って待つ。冷たいジンでも飲んでかーっとあったまろう。すこし押して開演した。脚が短いので椅子に座ると地面に脚が着かなかったので脚をぶらぶらさせたかったけど、着かないことがバレないようにごまかそうとした。

ソロの中川さんの声はろうそくみたいだ。決してビブラートは使わない、空気の流れにだけ細く揺れる声。消え入りそうなその細さをたどっていくうちに気持ちは身体を離れていくようだ。自我すら浮遊していくその手前までまどろみにとけていきそうで、近づくと暖を取るにはすこしだけ足りないくらいのあたたかさか。心にすっと入り込む。声に添わせるようなピアノは木みたいな感触で響く。試聴室の照明があたたかみがあって音楽とマッチしてた。

藤原さんは初めから藤原節全開、ルル子の台詞とともに藤原劇場が開演。良い意味でふたりのアクトが対照的だ。「自分の作った曲がじぶんよりかっこよくなるときがあって、でもじぶんのほうがかっこよくなるようにいつもいたい」みたいなことを言っていて、グッと来る度に手をぎゅっと結んだ。腕がよじれる。気恥ずかしくなるまっすぐで素っ裸なことばをああして堂々と放られるとミットがじんじんする。中川さんとのパークはハイライトのひとつ、特別だった。かつて矢野顕子は自身のひとつだけという楽曲について、清志郎が歌うことを曲が待っていたという趣旨の発言をしているが、パークについてもおんなじ類いの曲なのかもしれない(バンドでのパークもめっちゃくちゃ良い)。ふたりの曲を聞くのは3回目。夏にやった吉祥寺のアルマカン(修学旅行という企画)でも素晴らしいライヴを見せてくれた。
ぼくはといえば椅子に座りながら頭や腕を動かさずにいられなかった。あそぼうのときに周りを見てみるとyojikとwandaのwandaさんがダンスをしていて、yojikさんは机に顔をのせてとても良い顔をしていた。ちなみにこの後ヨーワンのライヴでは藤原さんがステップを踏み踊るリプライが待っている。素直さの永久機関

そしてyojikとwandayojikとwandaのライブを観たのは覚えている限り2年ぶりか。初めて彼らを観たのは2013年の1月。ちょうど3年前だ。この日は過去観たライヴよりも断然かっこよかった。彼らはバンド編成よりもふたり編成が好きだ。不足してるのに完成されてる。音や展開のコントロールが天才過ぎて音数や音域なんて字余りでしかない。いやはやとにかくwandaさんがほんとにさいこうすぎて終始心を掴まれていた。ダンスもギターもパッションも。あんなのソウルマンじゃないか。時折逸脱していくその姿にはある日のO.R.みたいな土臭さすらあった。マスコットキャラの威を借るソウルシンガー!ソウルたぎらせてそのままショートして崩れるのかな、との予想に反して実は完全にコントロール下にあるだなんて。音とリズムのマジシャンみたいでほんとに天才だと思った。どれも発想の外側。とても素晴らしかったので立ち上がって横のスペースに入りぎこちないダンスステップをめちゃくちゃに踏んでみたい衝動に駆られた...!こんな音楽が、神保町試聴室、20人そこらの空間に鳴っている。Try a little tenderness!ほんとに好きなものに圧倒されたときには人間は嬉しすぎてさいこうとか呟きながら爆笑してしまうんだな。いつの間にかじんわり汗をかいている。

ごまかせないほどの好きを見つけることができた人は、その好意を大切にしていれば大丈夫だ、今日みたいな良いことがあるよきっと、と思わせてくれるライブでした。3組ともほんとに好きが過ぎる。

ライヴ終わり、トイレの横で久しぶりに会った方とすこしだけ話した。いつもあんなにイケメンでかっこいいのに全然オラついてこないからすっかり安心して話してしまう。よーわんの素晴らしさはちょっと語れない。ライヴバンドすぎるのでもっとライヴにいこう、音源には漏れてしまっている良さが沸き出しててすごかった。藤原さんとアンコールでやった勇気100%についてすこしことばを交わした。

もうライヴが良すぎてまったく帰りたくない。飲むか帰ろか思案橋。行こか戻ろか思案橋。舞台は千代田区西神田。3歩進んで3歩下がる。眼鏡橋から商店街を抜けて丸山町辺りに頼りなく進む記憶を片手に未練たらしくグダグダしているとフジ久ファンの中村さんが話しかけてくれた。フジ久ファンの方々とお酒を飲んだ。ライヴが終わってこんなふうに残るなんて普段はしないのに。ある方が「○○さんですか」と声をかけてくれた。ブログの感想を伝えてくれて、とても嬉しかった。段の上で話しかけられたので段をおりて一言も聞き逃しまいと聞いた。なにかを始めるとなにかが始まるという言葉はほんとうだ。出会いが始まったりする。かつて書いたキムチの豚巻きをつくってくれたようでテンションが上がり翌日には再び自分もつくってしまった。自分がかつて書いた記事を誰かが読んで、感想を伝えてくれたりする不思議。その人を通して、以前のぼくがいまのぼくに話してくれてるようなおかしな錯覚を覚えた。神保町試聴室はかつて報われなかった思いのお墓です。ブログってすげーな。さらにチャボが好きだという方とも話すことができた。チャボの話なんて他人と初めて話したかもしれない。おれの暗黒RC沈溺時代を弔ってやった思いだ。ほらね、社会の窓はあけておくべきなのだ。