お盆のうつくしきひかりは夢じゃないかもしれない

お盆はrememberの日だと思ってる。
ナスときゅうりの牛馬に乗って、ご先祖様は帰ってくる。帰ってゆく。

ベランダには蝶々が産んだ卵がかえり、青虫がもくもくと葉っぱを食べている。
蝶々のように来て、青虫のように帰る。もそもそと。
行きはさっさと、帰りはのそのそ。どうかごゆるりと。

今年の盆は見事に風邪をひき、それでもうつくしきひかりは見たい!
と思って下北沢の風知空知へ行った。

店員の満点の接客以外にひとつだけ言えるとすれば、
「こもれびのうた」という曲のものすごさだ。
セカンドラインや針を落とす、new smileなどの名曲群を軽く飛び抜けていた。
中川理沙が描く曲の代名詞になる予感がある。もうこの曲だけで、行った甲斐があった。

MC sirafuは「この曲はオリコン1位狙ってます…無理かな」
「この編成じゃあ難しいかなぁ」「ぼくたち弱小だからね」なんて言ってたけど、
ぼくはこの曲が称賛を受けない世界に信用は置けない。
いつになってもいい。
ぼくらが生きている間でなくてもいい。いつかわかってもらえる人がいたらいい。

だってあの「シングル・マン」だって一度は廃盤になったんだから。
そのときの絶望たるや、もうね。絶望が希望だよ。
もし万が一「こもれびのうた」が廃盤にされるなんて世界史的愚行があったら、
現代の吉見佑子におれがなる!


 この歌の良さがいつかきっと君にも
 わかってもらえるさ
 いつか そんな日になる
 ぼくら何もまちがってない
 もうすぐなんだ

 気の合う友達ってたくさんいるのさ
 今は気づかないだけ
 街で すれちがっただけで
 わかるようになるよ


あー、音源ほしい。

「渡り鳥の家」について歌う中川さん。
「最後に音楽は流れて」と希望をうたう。繰り返し。
彼女は音楽を信じているんだろうなぁ。
あのリフレインには彼女の信じる確からしさが感じられた。
まあ、もしかしたらそんなのは夢かもしれないけれど。
夢かもしれない、かもしれない、かもしれない、かもしれない。
夢じゃないかもしれない!!!!!!
imagine 忌野清志郎

ぼくは中川理沙が描く景色と温度が好きで、
彼女は「ちいさないのちの日常のにぎわい」みたいなものを物語に編み込む。
それでいて、次の瞬間には壮大な、というより深くて遠い世界に到達している。
ブログやインタビューを見ると、どうも動物に相当な思い入れがあるみたいなのだけれど、
彼女の音楽がつくる景色には動物に向けるときのまなざしを感じる。
ぼくはこのまなざしの温度と光度がけっこう好きだ。

彼女の音楽には、身体を揺らされながら、ふとその揺れを止めるほどの一節が忍んでいる。
聞き流されつつ、聴きこまれる。聞き流されつつ、聴きこまれる。

ぼくらは合唱コンクールでなぜ感動するのか?
もしかしたら、音楽に必要なのは、技術以上に楽曲の良さ、なのかもしれない。
そしてこの曲は合唱コンクールで歌われたとしても、
いや、その場で歌われるからこそ、完成に近づく気がする。

逆接からの因果関係なんてセオリー通りの論理展開にもはや辟易としつつも、
この気持ちを切り取る点線が見当たらない。
とにかく、「こもれびのうた」は歌い手を限定しない懐の深さを持っているということは確かだ。
みなさん、覚えてください。こもれびのうた、です。

この曲はゆっくりゆっくりあたためて欲しい。青虫みたいにゆっくりでいい。
あーでも、音源ほしい。
みなさん、ぼくが音源欲しいのは、こもれびのうた、です。

 この歌の良さがいつかきっと君にも
 わかってもらえるさ
 いつか そんな日になる
 ぼくら何もまちがってない
 もうすぐなんだ