きみのさよならに付き合ってくれる曲

昨日は支店の最後の日。
さよならだけが人生だ、なんてほどに強くはないけれど、
受け入れ、諦め、しかし新たな景色に希望を願って別れた。

今朝は5:30頃目が覚めてしまった。
それからずっといろんな音楽を聴いていて、
久しぶりにRCサクセションの「ヒッピーに捧ぐ」を聴いた。

この曲はRCファンならずとも、
数ある清志郎の曲の中でも(推定500曲程度)
「ちょっと聴くかー」なんて気軽には聴けない曲。
それはチャボの「I STAND ALONE」と一緒だと思う。

覚悟の総量が違うんだ。聴いてくれればわかる。

それで、これは1986年の日比谷野音、ティアーズ・オブ・クラウンの映像。

収録された「シングル・マン」の発売から、(廃盤期を含めて)この時すでに10年。
このときの清志郎は、清志郎史のなかでもかなり異質(RCファンとしてのおれ調べ)。
こういう清志郎は、あんまり、というかほとんど見たことがない。

同時代を生きたわけじゃないから、
この頃の清志郎の雰囲気って本当の意味ではわからないけど。
でも、推察するに、観客をある程度信用してたんじゃないかな。
期待したんじゃないかな。じゃないとこれは出来ないと思う。

ぼくは、清志郎佐藤伸治も、
「自分の考え方を理論で固めすぎていない」ところが好きで。

二人にはものすげー信念を感じるのに、
よく言っていることが矛盾しているようなことがある。
そしてその矛盾を許している節がある。
「おまえさっきこういってたのにこれはいいのかよ!笑」みたいな。
でも二人のそういうところがぼくは大好きだ。

全体の筋を一本にまとめる必要はなくて、小さな部分の矛盾こそ積極的に受け入れる。
その曖昧な感じが好きだ。

曖昧を許そう。曖昧を諦めない。

清志郎のファンへの考え方も大きな振れ幅があるけれど、
この時期はどんなふうだったのかな。

慟哭の音楽に初めて出会ったのはこの映像だった。
葬式で親族の代わりに悲しみを涙して歌う「泣き歌」みたいなもんだ。

sirafuさんの「泣き演」はこれをもう少し希釈してる位置にある。
希釈しないと使えないよね、これは。
毎回これは、やるのもやられるのもつらいもん。

でも、チャボの「I STAND ALONE」しかり、この音楽があるから、
近しい人との死別の辛さがすこしだけ怖くないんです。

そんな音楽があることがぼくにとって救いです。