最初にホントに出会ったときの景色を、あなたは覚えているか?

昨日は同期と新宿で飲んだ。
別れた後、なんか帰りたくなくて、地元の公園でまったりしてた。


小さいときに大きいと思ってたものがそんなことなかったりして、
サッカーの朝練で駆け回っていた公園も、どこか小さく見えた。

公園の真ん中には、小さいときには気付かなかった、
紙糊みたいな匂いが漂ってきてて。

フエキ でんぷんのり FC10 100g

フエキ でんぷんのり FC10 100g

――もう金木犀の季節か、なんて思った。

大人の景色だって、決して悪いものではない。



丸谷才一が亡くなった。
ぼくが一番親しんだのは英文学翻訳家としての顔だった。
英文学家、アイリス・マードックの小説「The Bell(鐘)」は、
誰がなんと言おうと、名翻訳だ。

鐘 (1977年) (集英社文庫)

鐘 (1977年) (集英社文庫)

マードックの「鐘」は、大学5年目、1単位だけ取り残されていた英語の授業で、
仕方なく取ったあの授業で、あの日、教材として出会った小説だった。

1行目から面白いフレーズ・景色がよく出てくる物語。
日本語でも読みたくなったので、絶版だった「鐘」をAmazonで買った。

電車で席を譲らないと決めた瞬間、突然席を立って譲るシーンも説得力あるし、
ペンデルコートに着いて保護していた蝶を放す描写も最高だし。
湖の岸辺でトビーが仰ぐ姿に自由を感じるシーンも言葉にならない。

ただ、この小説はぼくにとって少し特別な小説なので、
このブログにいつか書きたいと思いつつ、想いが大きすぎて、結局言葉にならずに先送りしていた。


有名人が亡くなると、世には追悼が溢れ出す。
なかには愛の感じられない、「いただきます」より簡単で薄っぺらい追悼も、
そればかりか他人の死を利用して自分を良く見せようとするような輩すらも出てくるもんだ。

でも、大事なことは、その種の人を批判することでは決してなく、
故人がぼくに遺したものを、ぼくの身体を通過してまた新たに遺すことだと思う。

少し長い文章だけれど、そんな思いに免じて、引用を許してほしい。

このシーンは、別居不倫中の主人公ドーラがやむなく夫(ポール)の元に帰る直前、
国立美術館に寄って、ある絵を観て、「確からしさ」を感じるシーンだ。

 ドーラは、特にナショナル・ギャラリーへゆこうという気はなかったのだが、
その前までゆくとなかへはいってしまった。これからどうするか決めるにはいちばんいい場所だ。
もう、昼食を食べたくはない。もういちどサリーに電話をしようかとも思ったが、逢いたい気持は失せていた。
彼女は階段を昇り、エアコンディショニングで永遠の春がしつらえられてある美術館の展示室のなかへ迷い込んだ。

 ドーラはナショナル・ギャラリーへ、今まで数えきれないほど来ているし、
絵はたいてい自分の顔と同じように馴染みぶかいものになっている。
今それらの絵のあいだを、まるでお気に入りの森の中を歩くようにして通りすぎると、
心の落ちつきがやって来るのが感じられた。
彼女は少しぶらぶら歩きながら、ガイドブックを手にしている哀れな来館者たちを同情の眼で眺めた。
彼らは傑作を熱心にのぞきこむのである。ドーラにはのぞきこむ必要はない。
彼女は、素晴らしいものについて精通しているときにできる、威厳のある態度で、
それに直面し、見ることができるのである。
そして、その威厳は、その傑作が与えてくれるのだ。
彼女はそれらの絵が自分に所属しているもののように感じ、自分に所属しているたった一つのものは、
ひょっとするとこのナショナル・ギャラリーの絵だけではないかと考えて、
怨めしい気持になった。
この場にあって暖かく迎え入れ、いきいきと反応してくれるものに漠然と心を慰められながら、
彼女は以前にはしょっちゅう来て礼拝したことのある、
さまざまの神殿を訪れる。イタリア絵画のすばらしくて明るい空間
――それはどんな現実の南方よりももっと広大でもっと南にある。
ボッティチェルリの天使たち――鳥たちのように光り輝いていて、神々のように喜びに溢れ、
その髪は葡萄の蔓のよう。ジェザンナ・フルメントの官能的な存在。
マルガレーテ・トリップの悲劇的な存在。
早朝の彩りを持つピエロ・デラ・フランチェスカの厳粛な世界。
クリヴェリの閉ざされた鍍金の世界。
ドーラはとうとうゲインズボローの、彼の二人の娘を描いた絵の前で立ち止まった。
二人の子供が森の中を手をつないで歩いている。服はちらちら光っているし、黒い眼はまじめな感じ。
二つの淡い色の金髪の頭。まるくて、まるで二つのふくらんだ蕾のよう。
よく似ていて、それでいてしかも違う。
 ドーラはいつも絵を見て感動する。今日はしかし新しい感動の仕方だった。
彼女は一種の感謝の気持で、絵がみなまだここにあることに驚いていたし、
そして彼女の心は、絵に対する、絵の権威に対する、絵のすばらしい寛容さと輝かしさに対する、
愛にあふれていた。ここにはとうとう何か現実的なもの、そして何か完璧なものがある、ということが心に浮んだ。
同時に完璧でしかも現実的なものについて言ったのは、誰だったかしら?

 ここには意識が貪り喰うことのできない何か、
意識が幻想の一部になっても相変らず意識が無価値なものにはならない何かがある。
ポールだって今は、あたしがそれについて夢想する誰かとして存在しているわけだ、と彼女は考えた。
それとも、実際に出会い理解されることが決してない、
ぼんやりとした外的な脅威として実在しているだけなわけだ。
しかしここにある絵の群は、あたしの外部にある現実のものだし、
それはあたしに親切に、しかも堂々と話しかけてくれる。
それらは、優れた、そして立派なもので、その存在はあたしが今まで感じていた、
荒れ果てた昏睡状態のような唯我論を亡ぼしてくれる。
世界が主観的なもののように見えたとき、世界には何の関心も何の価値もないような気がした。
でも今は、結局のところ世界には何かほかのものがある。

 こういう考えは、はっきりと表現されたのではなく、ドーラの心の中をひらひら飛んだだけだ。
彼女は今まで絵についてこんなふうに考えたことはなかったし、
今もはっきりした教訓を引き出しているわけではない。
しかし彼女は啓示を受けたと感じた。
ゲインズボローの光り輝く、暗い、優しい、力強い画面を観て、
彼女はその前にひざまづき、それをかきいだき、涙をそそぎたいという欲求をとつぜん感じた。

 ドーラは、まわりを不安そうに見まわし、誰かが自分のこういう恍惚に気がついてはいないかしらと思った。
実際にはひれ伏しはしなかったけれども、彼女の顔は常ならぬ恍惚を示していたにちがいないし、
涙は事実、眼にあふれている。
この部屋には自分ひとりしかいないことに気がついて、彼女は微笑を浮べ、気をとり直して、
自分の智恵をいっそう心静かに楽しんだ。
ちょうど神殿で微笑するように、恩寵に浴し、励まされ、愛されて、まだ微笑を続けながら、
彼女はその絵に最後の一瞥をくれた。
それから彼女は向きを変えて、この建物を立ち去ろうとする。

 ドーラはいま急いでいたが、昼食をとりたかった。
時計を観ると、ちょうどお茶の時間である。どうすればよいのかと迷っていたことを思い出した。
しかし今、別に考えはしないけれど、どうすればよいかは明らかである。
すぐにインバーに戻らなければならない。あたしの本当の生活、あたしの本当の問題はインバーにある。
そして善なるものはどこかに存在するのだから、ついにはあたしの問題も解決するかもしれない。
結合というものはある。
漠然と彼女はそう感じていた――まだ理解してはいなかったけれども。
あたしはこの考えにこだわらなければならない。
結合というものはある。
彼女はサンドイッチを買って、パディントンに戻るため、タクシーに乗った。


ぼくはこのシーンが本当に好きで。
いつか、自分が納得いく形でこの小説について書きたいと思ってきた(現在完了形で)。

ぼくはこの小説を読んだとき、大学5年目だった。
その頃は、忌野清志郎の音楽に出会って、水俣の漁師・緒方正人の生き方に魅せられて、
普通の大学生が歩む道とは大きく外れた道を歩んでいる気がして、
そのことに、ある種の微かな誇りと隠れては現れる不安、重たい生きづらさを感じている時期だった。

そんなとき、この小説に出会う。
文化に触れるときの態度・姿勢、一つの味わい方を教わった気がした。

他人が良いと言ったからだけで作品に触れるのではない。
「傑作」や「名作」をのぞきこむのではなく、
自分が好いたものを大切にするという触れ方を許してもらえた気がした。

ぼくはこの時ドーラに変化を与えた感情を「確からしさ」という言葉で切り取り、
ぼくの生きづらさはその言葉に救われた気がした。

「なにか確かなもの」とか「実際的ななにか」を求めていたドーラが、
情欲的な肉体とか信仰とかではなく、
ただの「絵」に、現実的で完璧な何かを感じたってところが、嘘偽りない描写として感じられた。

ドーラがこの絵に感じた確からしさは、
ぼくにとって、忌野清志郎の音楽や水俣の緒方正人の生き方だった。
だから、ぼくはドーラのこの変化を信用した。

RCサクセションの音楽たちや、緒方正人の生き方に、
ぼくは「かっこよさ」と「確からしさ」を感じ、救われてきた。

ドーラの「ゲインズボロー」を、ぼくは知ってる。
あのシーンから少しずつ変わり出すドーラ。ドーラが信を置いたものに、ぼくは信を置ける。

遠藤周作の「深い河」に、こんなセリフがある。

信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って深い河で祈っているこの光景。
その人たちを包んで河が流れていること。人間の河。人間の深い河の悲しみ。

その人が「何に、どう信を置くか」で、その人に自分の信を置けるかが分かる気がする。
その人が自分で探した信ならば、ぼくはその人に信を置く。

丸谷才一さん。
数十年前にあなたが選んだ日本語に、ぼくは救われたんです。
神様がいるとするならば、どうかその一点だけでも彼に伝えてもらいたい。

ぼくはあの絵に、そう願った。
ドーラが自分で確からしさを感じて好きになったあの絵に。

シャボン玉のように、蝶々のように、昇っていけ。
彼の魂に、届いていけ。