cero 「My Lost City」ツアーファイナル@渋谷クアトロ


新宿御苑ではあの花が咲いていたのと同じ日、渋谷ではceroの音が鳴り響いていた。

本当に確かだったのはいったい 何でしょうねえ
時の流れは 本当もウソもつくから

――物語の空しさを超えていくんだ!軽やかに!
そんな潜んだ決意が呼吸として感じられたライブだったと思う。
My Lost Cityって録音物として間違いなく最上位で、
その世界観に近付きながら、ただの再現とは違った足場でライブを見せてくれた。


煌びやかな虚飾に憑かれてきたまちと疲れてきたぼくら。
さかさまにたちのぼるまちの、船出。
パラレルワールド。享楽と空白のワイルドサイド。
そこで鳴るcity pop。


なんといっても「Contemporary Tokyo Cruise」でした。


いかないで、光よ わたしたちは ここにいます 巻き戻しして
(う み な り か き け す)

リフレインされるとき、sirafuさんをずっと見ていて、
その表情とか、ジェスチャーを超えたボディーランゲージとか(ライブでやるあれ!)、
音楽的真摯が凝縮した泣きの演奏が炸裂していて、
彼自身が音楽とつながっていて、というより彼自身が音楽そのもので、
だから彼を見ているぼくも、音楽につながった気がした。気がした。

この日はもうこの一瞬がすべてでした。
ぼくはまだ忘れられません、このときのMC sirafuを。

何かを必死に訴えていて、
それはきっと、光にすら通過されていくわたしたちができる唯一の抗いで、
「ここにいます!」って言葉なんだと思う。

アルバムを通してCity Popやパラレルワールドの空虚さを歌いながら、
「ここにいます!」って歌う大きさよ!

光と影の間にはいつも存在があって、
希望でも絶望でもなく、存在をYESで歌ってしまえる大きさよ!

この歌は、きっと存在を歌っているから、
そして存在の歌をぼくらはずっと待っていたから、
光にすら通過されていくなかで鳴らすこの歌は、
ワケも分からずぼくらに響くんじゃないだろうか。

ブルースを享楽(ルビはポップ)に昇華して歌うceroに、信頼以外の何を置けるのか。

Oh Yeah ナイーヴな気持ちなんかにゃならない
Oh Yeah 人生は大げさなものじゃない

かつてブルースやロックンロールが、かつてFISHMANSが、
生きる姿勢や態度、温度や光度までを音楽で歌っていた時代があって、
ceroや中川理沙さんの描く曲って、内容や方法は違えど、まさにそういうものだとおもうのです。

この曲の後、高城さんが仙台で慰霊碑の前に行った話をして、
「その前に、ここに、本当にいる気がしたんだ」みたいな趣旨のことを話してくれて、
ぼくは「この『わたしたち』は、そこまで背負った歌なのか!」と、
MCで再び涙したわけであります。


オーラスに「わたしのすがた」を置くことで、
「明日会社行きたくねー」とさせずに
観客を日常に戻す心づかいがまた好きです。

自分の世界、想像の物語。
そして、みんなとの世界、「現実」の物語。
その二つをつなぐ、世界の路(cero)。

想像の世界から戻った時、みんなとの世界はなにひとつ変わっちゃいないけど、
そこに立つぼくはきっと、絶対になにかがちがっている。
ぼくはそう思っている。

分け入っても分け入っても空しいまち。とまでは言えない東京。
そこには、いきものもあったかいシチューもお風呂も愛も幸せもあったりする。
それでも、だからこそ。
――空しさの摩天楼を超えていけ!軽やかに!