ぼくにとっての、フジロッ久(仮)「超ライブ」

フジロッ久(仮)が3rdアルバム「超ライブ」を発売した。

ぼくにはこのアルバムについて書き残しておかなければいけないことがある。2013年から2年間、フジロッ久(仮)のただのファンだったぼくは、2015年の11月頃、なぜか藤原さん(vocal,guitar)と友達になった。この素晴らしいアルバムを称賛する声の一つに、製作期間中に藤原さんのもっとも近くにいたファンのひとりが見た景色を共有する、そんな試みがあったら面白いのではないかと思いついたので、少しその話をしたい。おっさんふたりの、とても個人的な話だけれど。

ものすごいざっくりとしたきっかけは、家が近かったからだった。話していくと生活圏以外にも共通項が多かったので、なぜか仲良くなった。

初めてプライベートで会ったのは、11月初め。これからアルバム製作開始、たしか明日からドラム入れ!みたいなタイミングだった。ぼくと藤原さんの関係は、つまり「超ライブ」の製作と時を同じくして構築されていく。溢れ出す興奮を抑えながら、思い出してみる。

初めて会った日は、0時過ぎに待ち合わせをして飲み始めた。藤原さんは修理していたギターを受け取った帰りだった。会う前はあまりにうまく運ぶ急展開が信じられなかった。壺とか売られたらどうしよう...、と心配していたが、2年間好きだった人にならまあ売られてもいいかあ!くらいの考えのもと、集合場所へ向かった。ぼくが選んだ、地元のちょっと変わったお店へ。奥の席に座る。元バンドマンだという大将は既に少し酔っぱらっていて、壁にかけてあったギターを手に取り、顔に似合わない切ないギターを弾いた。棚にはボブ・ディランの歌詞の絵本。レモンサワーを頼んだ。ぼくは一応人見知りなのに、あまり緊張しなかった。ぼくらはいろんな話を交わした。彼はときどきノートにメモを走らせた。時は進む。ぼくらの街は眠る街。お店は2時過ぎに消灯だ。お店を出た後は、踏切前に座って、コンビニで買った緑茶ハイで乾杯。最近出来た曲、と紹介し、持っていたギターで何曲か歌ってくれた。彼は確か、あいらぶゆーやライブなどを歌ったはずだ。2曲ともあっという間に好きになった。最近自転車をなくして困っていたみたいで、ぼくのママチャリが余ってるので譲りますよ!と、考えるより先に口に出していた。

帰りは確か朝の4時頃だった。壺は売られなかった。葉や花は散りゆく季節だったがぼくの心には嬉しさが咲き乱れていた。なにかの歌をご機嫌に下手くそに歌いながらフラフラと自転車をこいでいた、かもしれない。突如駅の前でバランスを崩して転倒、左手から少し血が出たが、アドレナリンがいっぱいで痛みを感じなかった、かもしれない。

いろんな思い出がある。ぼくの家で何度か飲み明かしたこと。キッチン借りるよって言って、煮込み料理を作ってくれたこと。ポタージュと味噌、ニンニクをベースに、ベーコンとキャベツを煮込んだ。

道すがら、近所の花屋の看板に「花」とだけ書いてあるのを見つけて、「もう少し情報ほしくない?笑」とただ面白がっていたときは、彼の魅力のひとつが少しだけつかめた気がした。彼は理解を越えたものを無理に理解したがろうとしない。そのままにしたままで面白がる。腑に落としたがる欲求と、割り切れないものに√を被せて面白がる懐はどうやったら同居できるのだろう。

思い返すと多い時には週3くらいで会っていた。飲みはキツいけどお風呂なら!ってふたりで何度か銭湯に行ったこと。友達と銭湯に行くのはひとりより幾分、軽快な気持ちになれるのだ(近所の友達と銭湯、おすすめです)。正月に作ってくれた石狩鍋がさいこうにおいしくてお腹がパンパンになるまで食べたこと。おいしかったからしばらくおかずに鮭が増えたこと。深夜にミックスとマスタリングのちがいやコードのメジャーとマイナーについて比喩や実演を交えながらわかりやすく教えてくれたこと。彼は頭が良い、分かりやすく教えることが得意だ。ふちがみとふなとのライブに一緒に行ったときのこと、素晴らしい音楽を聴いて嬉しさが募った彼は何度かユニークな笑い声をあげていた。かわいかった。好きなカルチャーについて教えてくれたこと。なつやすみバンドと片想い、忌野清志郎や数学、恋愛について。おっさんふたり、くだらない話もたくさんした。会話の75%は覚えていない。友達として遊んだ次の日に地下鉄に乗っていたときのこと、フジ久の音楽を聴いていると本人からLINEが来たときにはさすがにわけがわからなくなってちょっとだけ笑った。

この歳になって、親しい友だちがまたひとりできたことが、ぼくにはとても嬉しい。

それから藤原さんは、今回のアルバムの曲たちを我が家のスピーカーから、ぼくにも聞かせてくれた。ぼくは、こんなふうに発売前に聞く方法がファン特有の美意識に照らせばグレーかもしれないことを薄々感じていた。それでもやっぱり聞きたかったから聞いた。ミックスやマスタリング前の音源を何度か、そして結局はすべて、聞かせてもらった。そしてそれは正解だったといまになれば思う。こんな名盤をこんなふうに聞ける機会は、もう一生ない。

部屋で曲を流しながら藤原さんが曲順を考えていたこともあったし、アルバムのアイデアや歌詞を考えていることもあった。曲の解説をしてくれたり、ここの部分がまだ出来ていないとか教えてくれながら「超ライブ(仮)」はぼくの部屋で流れていた。当時はアルバムの仮タイトルもたしか別のものだったはずだ。一曲目に悩んでいたらしい彼はあるとき、「一曲目...そうか!フリースタイルかもしれない!」と突然ひらめいたのか、ノートに落とした視線はしばらく上がることはなく、一言断ったあと筆は走り続けた。そんな彼のひたむきさが羨ましくて、ぼくは話しかけずにキッチンあたりでなにか別のことをしていた。しばらくすると「ちょっとやってみていい?」と尋ね、鮎子さんのあのピアノに乗せて語りを始めた。ものすごくドキドキした。
またあるとき、高橋元希(vocal,passion)のラップで最高潮を迎えるライブという曲にものすごく興奮するぼくに対して、本人に確かめてはないけど、と前置きした上で元希くんの最後のラップ語りを踊る理由のMC.sirafuのラップと対照したこともあった。

ぼくは毎回、素晴らしい音楽に、ただただ、めちゃくちゃドキドキしていた。ミックスもマスタリングもしてないけれど、名盤であることはもうわかっていた。未発表とはいえ作品を聞かせてもらっているわけだから、その都度感想を言ったほうがよかったのかもしれないけど、ぼくはほとんどの場合、言葉にできなかった。せいぜい、さいこうとか素晴らしいとかそんな具合で、たいていはニヤニヤしているだけだったと思う。実に役に立っていないがこれでも27歳、ご立派な社会人である。だいたい、技術的な忠告なんてそもそもひとつもできない(求められてもいない)。ぼくはただそこにいただけだ。しかしそこにいなければ見えない景色もある。

いつからだろう。初めのうちはどんな作品になるか藤原さん自身も分からないなかで、まるで子どもが化石でも掘り出すような眼をしていた。そんな彼が、このアルバムに、そしてまた自身の音楽に、いろんな犠牲のうえになにかを懸けているような、なにか強い気持ちが交じる眼に変わったときがあった。正確な日付は分からないけれど、たしか12月中下旬、レコーディングも佳境に入り始めた頃だ。その眼は2015年12月27日(日)トコナツwinter@日野市民会館のライブを経て、2016年3月6日(日)レコ発ライブ@下北沢ベースメントバーにおける「ご飯のテーマ」で、強い気持ちが滲んでいたあの眼に結ばれる。ぼくはあの素晴らしいライブをたとえいつかいつか忘れても、あの眼だけは、一生、忘れることはない。2010年から変わり始めた彼が震災を経て自身の音楽にうちひしがれ、最初につくったのがシュプレヒコール、提唱したのがニューユタカ。そして自身の生活を省み、耕す道中にある現在。音楽に真摯に向き合った人間が、音楽にしっかり祝福されるというのは、少年ジャンプみたいな希望ではないか。このアルバムが評価されない世の中なんて、どう考えたって聴き手の方が間違っているとおもった。

ぼくがフジ久を初めて見たのは、2014年のニューユタカのレコ発ツアーファイナル@渋谷WWWだった。激しいモッシュやダイブが眼前で繰り返されるフロアに降り立つ。目の前では汗が飛ぶ。気づけば涙が止まらなかった。こんなにもライブで涙を流せるなんて、自分でも知らなかったし、理由もよくわからなかった。男はそれを踊る理由と呼ぶのだ。いま思えば、たぶん美しさに関するなにかが、客席を含めたあのライブにはあったのだと思う。それからはよくライブに通った。行く度に新曲が増えて、どれを聞いても素晴らしくて、いつも少しだけ迷いながらも率直で、可笑しくて、美しかった。フジ久のライブはお客さんが音楽と関係している。ライブ全体でコミュニケーションしている。初めはステージがまぶしくていつかこんな自分のくだらなさが見透かされるような気がしてたのに、いつからか、いつのまにか、ぼくも関係してるような気がしてた。そうなったらもう、信じてみたいなにかを裏切らないように、恥ずかしくないように生きていくしかない。忌野清志郎に出会ったときもそうだった。カッコいいものに出逢ったぼくらは、カッコよく生きなくてはいけない。音楽は個人に問う。震災を経て暮らしの連続性をも揺さぶられた人間が、家政について省みる。ツアーを回る人間が地元や暮らしを志向する。飛躍しているようで、当たり前の帰結とも言える。さて翻って、聞き手だ。生活や仕事、愛を耕すような音楽を信じてみたいと感じたぼくたちは、いやぼくは、それをなるべく裏切らないように、磨き、耕す振る舞いこそ、と視線を返すのは、はたして少し力みすぎだろうか。信じてみたいものを、日々の生活を横軸に置いて微分する態度。その微細物を再び積分し、信じてみたい価値に再構築する想像力。

超ライブとはなにか。藤原さんはいつか、「ニューユタカはスローガン、次のアルバムは自分なりの実践」と語っていた。もしかしたらライブの一瞬の輝きを、いまを輝かせることをどの瞬間も諦めたくない気持ちが、彼らに「超ライブ」と言わしめたのかもしれない。超ライブとは、彼らの生活と生命を、身体的な実感にもとづいて、高橋元希の言うところの「終わらないただひとつの方法」で鳴らしたアルバムなのではないだろうか。

また藤原さんはあるとき「今回のアルバムはラブソングばっかりでこんなにもラブソングを書く時期はぼくの人生においてもうないかもしれない」と語っていた。超ライブとはつまり、ラブに関するアルバムなのだ。いまを耕すことと愛するということはおんなじ根っこから生えた別の花なのだとしたら、ラブソングとはいまを輝かせるロックンロールミュージックをもっとも体現する方法のひとつなのかもしれない。

かつて忌野清志郎は「単純なラブ・ソングこそ、最高」だと語った。忌野清志郎がメンバーや楽器形態を変え続けながら20年以上続けた、RCサクセションというバンドがある。元々のバンド名は、The Remainders of Clover Succession。(中学時代に彼らが組んだバンド、)クローバーの残党の続き、って意味だ。クローバーの種子は2016年にまで続いていた。今度は四ツ葉だ。終わらないただひとつの方法。それは、誰かが死んでも他の誰かが続けていくこと。ロックンロール。ライフ。ライブ。超ライブ。


いなければ見えない景色がある。
ぼくのライフ。こんなこともできるライフ。なんでもしようぜ。とんでもないことは起こりうる。


2016年4月28日@渋谷WWW。
レコ発ツアーファイナル。


なんのことはない話も、そろそろおしまいだ。子どものときのあそぼうが「一緒にいよう」だったみたいに、この冬、おかしなおっさんふたりが笑いながら一緒にいた。くだらないふたりが一緒にいた。誰にでも、どこにでもありえる、それだけの話。


フジロッ久(仮)、超ライブ。
発売おめでとうございます。
そして、発売ありがとうございます。
これから超ライブに出会うすべての人が、この素晴らしいアルバムのせいで、彼らの人生が少しだけ、変わりますように。