フジロッ久(仮)×ツクモク20160417超ライブツアー@名古屋 金山ブラジルコーヒー

フジ久のレコ発ツアーを観に名古屋へ行ってきた。

名古屋駅からJRで一駅、金山駅に立つ。駅改札から徒歩1-2分のところにあるブラジルコーヒーという喫茶店が今夜の会場だ。1971年から営業しているお店だそうで、その場が醸し出す雰囲気には、懐かしさがありながらも伝統ある喫茶店にありがちな敷居の高さはない。ライブ準備前の通常営業時間、16時過ぎに到着したタイミングでも、座席は7-8割くらい埋まっていた。愛されているお店ということだ。

こんな喫茶店が風俗雑居ビルの1階にあるというところもボーナスポイント加点対象。上の階で繰り広げられるドラマとライブについては、もういい大人なのであえて想像を省こう。ぼくはこの日2回ほど、おそらくは平成生まれであろうキャッチに声をかけられた。こちとら昭和生まれである。フラットでさいこう。

もちろんフードとドリンクメニューの充実もたまらない。どのメニューもめちゃくちゃおいしそうで、迷った挙げ句にぼくは鉄板ペペロンチーノを選ぶ。ライブ前にも関わらず。まあそのエチケットは置いといて、とっても美味しかった。スパゲッティの一部はパリパリ。麺のお焦げだ。麺に夢中でセットのサラダをこぼしまくってしまう。食べるのが下手くそな大人だ。もちろんアイスコーヒーもめちゃくちゃうまい。アイスコーヒーがうまい喫茶店のストローは細いという法則はここでも立証された。ぼくの喫茶店帰納法は依然破られることなく回り続けている。ライブ前にガムを3つ噛んだ。

定食を5回食べると一回タダになる制度の太っ腹加減にはもう声がでない。ライブ中の瓶ビールはサッポロの赤星中瓶、500円。この日知り合った大豆好きの女性は冷奴300円をオーダー。なんでも豆腐の資格を持っているらしく(!)、一口運んで「昔ながらの豆腐」という評価を与えていた。恐れ入ります。彼女との会話はハーコーでめちゃくちゃ面白かった。お客さん同士が店員さんと連携しながらドリンクやフードを渡し合うシーンはあちこちで見られた。もうこれだけでもこの日のブラジルコーヒーさいこうなんですが、さらに加えて!ライブの音鳴りも抜けてくかんじ!いったいなんなんだこのお店は〜。

はじめはツクモク。
ドラムとフルート(サポート)の方以外、全員が曲を描き、ボーカルも取る。つまり曲によってがらっと色が変わる。ツクモクの誰もが、きっとどのバンドでもボーカルを張れるほどのたたずまいと完成度。全員、演奏は超絶プレイヤー。それらが集まった音をあなたは浴びたことがあるか。名古屋のインディースターが集まったバンドをツクモクと呼ぶのではないか。こんな言い回しがはたして言い過ぎか、ぜひあなたにライブ会場で確かめてほしい。東京でワンマン見てえ...

すくなくともぼくは、この夜、彼らが嬉しそうに奏でた音音や声の重なりに、生のにぎわいを感じずにいられなかった。とくにベースののびさんの描く曲と歌が好きだ。アルバムの2曲目と最後の曲ってぼくはとても重要だと思ってるのだけど、彼らの素晴らしいアルバム「野菜と音楽」は、そのどちらものびさんの曲があてられている。ある方の結婚式で流されたという紹介のもと演奏した「これから」には、ぼくらが暮らしに信じるすべてが詰まっていた。歌詞のタッチで言えば、矢野顕子×忌野清志郎「ひとつだけ」のファンタジー要素をすべて暮らしにベッドしたような名曲。レーダーチャートはこんなに尖ってるのになかみはまるくてあったかい。

ツクモクさいこうだ。終わるとすぐにトイレに並ぶ。並ぶうち、横にいらっしゃったツクモクメンバーにさいこうであった旨を伝えた。感想を伝えるときの語彙はいつも5つやそこら。「めちゃくちゃ、まじで、よかった、さいこう、ほんとに」これらを組み合わせて感想を伝える術しか知らない。5!=120通りの可能性でもってそのときのベストな並び順を選び伝えるスリルとスキルが必要な業である(うるせえ)。人は制限されたコミュニケーションのなかでこそ積極的に他人と交わろうとする(うるせえ)。
店主の角田さんからトイレの案内ジョーク(ここには書けないのでぜひ現場へ)が挟まっている間にぼくはトイレを終え、ツクモクのアルバムを買った。

ライブ以外のサイドストーリーを少し挟もう。今回、名古屋公演を主催するRJの加藤さんがツイッターで声をかけてくれて、ぼくは彼女たちと一緒に、このライブを後ろで支えるスタッフ(仮)として参加させてもらった。このブログで書いた、超ライブに関する記事を彼女が読んでくれて、「準備から一緒にやりましょう」とのお言葉。ありがたすぎて、ふたつ返事で、というより、ぜひ手伝わせてくださいと申し出た(返信までの体感時間5秒)。行き帰りのバスチケットと公演の予約メールをすぐに送った。

加藤さんのことを、ぼくは3-4年前から認識していた。片想いの踊る理由に関する彼女のツイートを拝見し、彼女のアカウントをフォローしていたからだ。あれはまだ片想インダハウスが出る前だ。耳で歌詞を聞きおこし、sirafuさんに添削してもらうガッツがはたしてぼくたちにあるだろうか。その後彼女がフジロッ久(仮)と出会うときの熱量を、ぼくはとてもよく覚えている。彼女とはライブまでは主にDMでやりとりし、2度ほど電話をした。名古屋と東京で距離はあるが、彼女の丁寧な思いに何度も触れた気がした。ライブ準備のこと以外にも、いろんな話をした。その後、ライブ前日に初めて会うことになる。

ぼくはライブ前日の土曜日、16時頃に名古屋に到着。名古屋の街をぶらぶらと歩き、夕方になると、とある銭湯に入っていた。いかにも地元用だ。子ども連れの父親が入ってくる。しかし子どもは水を怖がってか、頭や体を洗おうとしない。「今日は頭を洗いたくない〜帰る〜」といった具合で泣き叫んでいる。2度ほど脱衣所に逃げていった。15分近くのすったもんだの末、なんとか洗うことに成功。父親はお風呂に入れようとする。浴槽は三つ。ニンジンの薬湯、ジェットバス、普通の浴槽。緑色の薬湯がぬるめで入りやすそうだった。父親は「この緑のお風呂にしよう。ニンジンのお湯だって」と促すもこどもは「メロンの匂いがする!」と応戦。緑はおそらくタイルの色であってメロンの匂いはするわけがないと思うがこどもの自由な発想力よ。おじさんは朝鮮ニンジンの文脈に支配されていた。少しひるむ父親にすかさず子どもは第二手を放つ。泡の出るジェットバスを指して「こっちのお風呂は絶対に入らない!グツグツしてる!絶対熱いもん!」。父親は冷静に「沸騰してる訳じゃねえよ」と突っ込んでいた。この愛すべき景色を今夜、小さな怪獣のバラードと名付けようではないか。

お風呂を上がり待ち合わせ場所へ歩く。加藤さんは仕事帰り。はじめましての足でまずはキンコーズへ。この時点で面白い。その日分の作業を軽めに終えて、加藤さんのお宅で10人以上の人と飲みまくる。お寿司をとってくれていたのが恐縮しつつもめちゃくちゃ嬉しかった。きっとおれがお寿司好きなことを汲んでくれたのだろう。しかしなにより嬉しかったのが、みんなが先のブログ記事を読んでくれていて、さらに「よかった」と言ってくれたこと!人生でいちばんの文章書こうと思って書いたのでとても嬉しかった〜。加藤さん宅には既婚者も普通に飲み会に来ていて、普通に深夜まで参加している景色が新鮮だった。いいなあ。後半はおおむね下ネタだったかもしれない。さいこう。そしてなんと、この日ぼくは、そのまま加藤家に数人で泊まらせてもらった(!)。人見知りなぼくには、この行動力と図太さ、さすがにちょっと意味がわからない。これはほんとうにぼくか?人見知りの特性を好奇心とフットワークの軽さと常識のなさが凌駕してしまったのかもしれない。

しかし彼女には、人を巻き込んでいく不思議な力がある。彼女自身は能力じゃなくてそういうやり方が好きなだけというが、ある種の強引さを少なくともぼくはイヤには感じなかった。巻き込まれていくうちに夢中に、楽しくできていた気がする。それから妹さんは、言葉に凛とした力があった。あと笑いかたが豪快でさいこう。相方のせいこさんは加藤さんを隅々まで支えるグッドパートナーだ。加藤さんのまわりに、ひとがたくさん集まっている。眠りについてから朝まで、外は雨と強い風が止まなかった。

翌日、朝、スーパー銭湯にいく。さっきまでの雨はほとんど止んでいた。その銭湯が偶然、2年前に片想い×HAPPLEを観た翌日に入った銭湯とおんなじで嬉しくなった。そのあとは加藤さんのお宅やキンコーズ、ブラジルコーヒーと場所を変えながら、ライブのための準備をした。場を作る側の景色を見るのは初めてだ。作業をともにすることで、彼女たちの丁寧でやさしい思いの根っこに触れることができた気がする。主催者の思いがお客さんの心に寄り添う瞬間があることをぼくは知っているので、ぼくたちもそうなれたらいいな、と思っていた。派生する力を、どこかで信じている。

そしてフジ久のライブ!!!素晴らしかった〜。演奏の勢いが強い。ぼくもまわりもずーっと興奮していた。ずっと興奮していて正直あんまり覚えていないけどすごく楽しかった。自分含めて地味でおとなしそうなやつらがめちゃくちゃに踊って興奮している景色、君にも見えるか。ぼくらのダンスフロアはここにある。ツアー初日も素晴らしかったが、音の迫力が増している。初日とは積んでいる馬力がちがう。さすがにメンバーには疲れの影がみえる瞬間もあったが、演奏を重ねる度にメンバーの顔が生き生きとしていく。メンバーの顔がしあわせはっぴー100%な顔になったとき(主観)、ぼくのスイッチはどちらかに倒れ、すべてに安心してライブを楽しめるようになる。フジ久が素晴らしい演奏をする。それを見て観客がめちゃくちゃ良い顔になる。フジ久がその顔を見て良い顔になる。別の観客はそれを見て、また良い顔になる。良い顔の連鎖。良い顔で関係する仕組み。ライブという曲のイントロでこころがぎゅっとなった。

あっというまにアンコールに突入。ふと気づくと外にいるおじさんがガラス窓越しに一生懸命背伸びしながらライブを観ていた。おじさん、あんたも仲間だ。翌日仕事のぼくは夜行バスで帰るため、ダブルアンコールは聞かずに店を出た。2日間お世話になった何人かに挨拶をして、外に出るとツクモクののびさんがいた。「ツクモクすっげえよかったです!」と伝えたらナイスな笑顔で「ナイスキャップ!」と帽子を誉めてくれた。この人ほんとさいこうだな。あったかい気持ちのまま急いで駅へ向かう。これまでライブに行くと、終電を気にして途中でライブを抜けるひとを横に見ることが何度かあった。その度に「さぞかし残念だろうな」と思っていたのだが、ぼくはもう完全に満足していた。あのときの彼女もこんな気持ちだったのかもしれない。

22:38発のJRに乗る。名古屋駅に着いたのが22:42。バスの集合時間は45分である。電車を降りると太閤通口の噴水前へ向かって猛ダッシュする。その間、ぼくの心には最後に聞いた「ドゥワチャライ久」が流れていた。

今夜の素晴らしいライブを思い出しながら、とてもあたたかい気持ちで、息を切らしながら名古屋駅を走る。ぼくに必要な荷物は、膨らむリュックのなかにはひとつもなかった。

この日のライブを、誰かはすぐに忘れ、誰かはふとした瞬間に思い出す。それは曲や歌詞かもしれないし演者や観客の表情かもしれないしフードやお店の雰囲気かもしれない。ただただ楽しかった、という感覚かもしれない。もしかしたら加藤さんたちが用意した仕掛けやおみやげかもしれない。それらが、いつか、だれかのこころにたちのぼる可能性が、この日、あの場にいたみんなには確かにあるのだ。

種子がその芽を刃に変え、殻を破る。土を進む。柔らかくてスローで力強い動き。そんな芽吹きのような運動はきっと音楽とぼくらの間にだっておこりうる。音楽の芽はふくらみ、いつか誰かにとっての枝や葉に変わる。そんな物語はすべて、音楽がだれかのもちものになって、暮らしのなかに溶け込んでいくところから始まるのではないか。たとえばぼくの名古屋駅みたいに。たとえばだれかの結婚式みたいに。それは作曲者やバンドマンですら想像もしていないことだったりする。ぼくの二日間みたいに。

派生する運動は、いつもささやかで弱々しくて、地味で地道だ。けれどそういう微弱でスローなドラマにこそ、どこまでも続いていく力があるのかもしれない。暗い土のなかを光に向かって進むような。もし速さや旨味や効率とおんなじように、続くことを測る尺度がそれらと同列にあったとしたら、ぼくらはもう少しだけ、暮らすことを大切にできるだろうか。

その芽がいつか花を咲かせ、しぼんで、枯れるとき、ぼくらの足元では、また新たな芽が殻を破り、その土中を進んでいることだろう。

バスに乗り、東京に着く。腰と脚が少し気だるい。喉が少し痛み、まだ少し眠い。一口、水を飲んだ。なにげなくカーテンをあけると、競馬場が見えた。最終コーナーを曲がった直線を、朝日を受けた馬が走っていた。ぼくのこころが震えたことを、あの馬は想像もしていない。