受粉という信仰

土曜日。休日だ。
朝、洗濯とトイレ掃除をした。昆布の佃煮と卵かけご飯をたべて外へ出た。今日は髪を切ってもらう。自転車で向かう。50分走らせて到着。途中、南池袋公園を横切る。なんだかおしゃれな公園になったようだ。

風にぶつかりながらペダルを回す。明治通りの早稲田から大久保あたりのオフロード具合はいつになったら整備されるのだろう。いつも緊張感が高まる。大久保で信号待ちをしていると、寝起きみたいな格好のカップルが信号を待ちながらあっち向いてほいをしている。歩行者用の信号が点滅を始めた頃、上だか右だかわからないような首の振り方をしてしまう彼女。ふたりはじゃれあう。仲が良さそうだ。

太陽が心地よく、少し汗をかく。明治通りに運ばれて新宿から原宿へ。代々木から一気に坂を下る。東郷神社のあたりで、名古屋で出会った女性を見かけた気がしたが、後続の車がいたので止まれなかった。残念。そのまま明治通りを進んでいった。
美容院は、いつも夜に来るのでどこか雰囲気が違う。光が入ってきて、なんだかファンシーだ。髪を切ってもらい帰宅。

帰宅後、床の掃除をし、風呂の足拭きマットやトイレのカバーなどを洗濯。同時に、カレーを作る。以前冷凍していた玉ねぎと先日冷凍した鶏むね肉で作る。プチトマトが余っていたので、具材に加えた。プチトマトの入ったカレーは、ぼくは好きだ。トマトの青くささが気にならなければ、噛んであふれるジューシーさや、カレーを彩る酸味やあまみなど、これからの時期におすすめできる具材のひとつだ。

昼寝をして、映画をみたり音楽を聴いているとあっという間に夕方。池袋の芸劇でロロの「あなたがいなかった頃の物語といなくなってからの物語」を観るために外へ出た。

素晴らしかった。言葉が洗練されてて。うつくしく磨かれた本物の言葉に触れると、それだけで心って感動するんだなって。言葉の力を思い知った。昨日の130分間、言霊という存在が少しだけ近づいた。声に出して読まれたい言葉たち。その言葉たちにふさわしいやり方で、ロロの俳優たちはいとおしそうに言葉を扱うのがまたさいこう。ロロの俳優たちが声に出した言葉たちが、ぼくに投げ込まれて、ちゃぽんって記憶の水滴が舞っていく。そのしぶきは抗えずにすぐに池に還ってしまうんだけど、ぼくの耳にはちゃぽんの丸さと投げられた言葉の質感だけはずっと残ってる。そんな感じ。個人的には、今作の言葉のセンスは、ロロmeetsフジロッ久と言ってしまいたいのだけれど、果たして検討外れだろうか。

少し雨が降ったようだ。劇場から外に出ると、さよならなんて云えないよ(美しさ)を口ずさんだ。少しだけ興奮しながら、自転車で帰宅した。

日曜日、朝に父親から電話があった。二週間前に体調を崩したときに料理を持ってきてくれて、今週は手紙を届けてくれるついでにまた持ってきてくれた。さすがにもらってばかりでは申し訳ないので、昨日作ったカレーを渡した。喜んでくれてよかった。

広い公園で、昨日のロロの台本を読んだ。音読している。この言葉を音にすると、言葉たちが生き生きとしているのを感じる。

昨日のロロの台詞を口ずさみながら商店街を歩き、八百屋で野菜を買った。おはようございます。挨拶をする。挨拶とは応答なのだと気づく。いままであったはずの応答がなくなることは、人生でとても悲しいことだよなあ。これだけ生きていればひとつやふたつ、なくなってしまった応答くらいはある。なくなってしまった応答もかつては確かにあったのだ。作者の気持ちを答えよ。誰かの気持ちに応えよ。帰宅し、おからでつくったナゲットを揚げた。また調子にのって自分のアレンジなんかを加えたせいで、タネからはおいしくなさそうなにおいがしている。後悔先に立たず。地に落ちたモチベーションで、揚げてみた。意外と悪くない。ただもう少し片栗粉を加えるべきだった。ひとつ崩れてしまった。明日のお弁当はおからナゲットである。ただケチャップがない。

先日買った花たちは、わが家に来てから、もう一週間が経った。氷のおかげか、まだ元気に咲いている。少しだけ外に置いていたら羽虫が花のあたりをうろうろしていた。今日見てみたら種みたいなものが花の中心に膨らんでいた。自家受粉をしたのかもしれない。羽虫なんて部屋にいたら邪魔にしか思わないのに、花がある暮らしは、こんな世界の見方を思い出させてくれるらしい。しかし改めて、種すら違う昆虫に、自身の生存を掛けた受粉を託す植物よ。その懐の深さ、生存戦略の大胆さを感じずにいられない。種すら違う昆虫を信じているその遺伝子設計は、もはや組み込まれた信仰ではないのだろうか。この花たちは、遺伝子レベルで信じているのだ。受粉行動のスリル。こんなに大胆なのに緻密な設計である。受粉のロマン。思い付きを書き留めているが、これはすごいことだ。

植物の強さを感じた出来事があった。もう5年前だ。大学を休学していたときに、ぽくは沖縄で被爆アオギリ3世の種をもらっていた。311を経て思うところがあったぼくは、それをやすりで少しだけ削ってから、たしか夏か秋ごろに土に埋めた。つぎの春、アオギリは芽吹いた。被爆しても生き方を変えずに、ただ芽を出し根を生やし上へと伸びるその様に、その緑以上の青さに、ぼくは感動した。

土は水と太陽とともに木々を育む。木々は葉や実を落とし、動物たちに供する。その奉仕は、生存戦略をも兼ねており、その豊穣な奉仕はやがて土を肥やす。動物たち自身も土に還っていく。この世界には、誰かのためや自分のためではなく、みんなのおかげで回っている場所があるのだ。どこでもないどこからかやって来たぼくらは、どこでもないどこかに還っていくのかもしれない。

どんなに言葉を尽くして、世界の約束みたいな大きなことを言ったって、植物の大きさには敵わないのだ。