あまりに大きな待ち合わせ

元来姿勢がわるいせいか、仕事中、腰痛がひどくなってしまった。困った。ということで今夜はこれから銭湯へ行く。

残業を終えて、スーパーへ立ち寄る。ネギが3本150円、ここ最近のなかでは比較的安かった。そして定価180円の納豆(1パック2個入)が今日は99円になっていたので買った。普段は60円前後の納豆(3個入り)もしくは98円のひきわり納豆(3個入り)を買っているため、国産の大粒納豆を買うのは、ひとり暮らしをスタートしてからはじめてかもしれない。贅沢三昧、気分はハナキン、ザギンでゴーユーである。現実はこの街、いたって低空飛行な水曜日だ。それからシャケの切り身を買った。

帰宅後、少しだらだらしてから、ごはんの準備。といっても鮭を焼いている間にネギを刻んで、納豆をかき混ぜて、ごはんを解凍すればいいのだ。今夜の主役はもちろん納豆だ。普段とちがう豆の大きさに思いのほか、戸惑う。ひとまわり大きいだけで、納豆ではない食品のようだ。グロテスクに感じた。とりあえず口に運ぶ。うまい。うまいぞ。なんだこれは。納豆の糸と糸が織り成すあの白い絹のようなものが舌に触れた瞬間、ふさぁと柔らかく舌の上に着地。あっという間に舌全体を覆い包む。そして普段よりも豊かな旨味、あまみと深み、強いて言えばコクのような味覚が広がるのだが、このうまみはその着地の感触含めてのうまみである。ちょっと衝撃を受けつつ、シャケの切り身に箸を伸ばす。普通。いたって普通。シャケにはわるいけれど、今夜のあなたは箸休めだ。納豆のシルクロードよ。今夜ぼくをどこまで運ぶというのだろう。

帰宅後の電車のなかでふと思ったことがあった。音楽家というのは、たぶん常に聞き手を期待して音楽を鳴らす。その聞き手を期待する姿勢は、言ってしまえば植物の受粉みたいなものなのではないか。

植物は、種の保存を掛けた受粉を、自らの手では行わず、昆虫や風に頼っている。一世一代の大博打。これによって、植物は自らの種を遠くへ運んでもらうことが可能となるのだが、これほど重要な役割を、自らするのでもなく、おんなじ種の別の個体に頼むのでもなく、全く異なる種や自然現象に頼ってしまうことは、とても滑稽で、あまりに大きな信頼ではないか。ずっとあっちの方で、まあ生きてる間に会おうな!おう、まあ行けたら行くわ!
遺伝子で定められている信仰。世界でもっとも大きな待ち合わせ。そんなふうに形容したとしても、なんら嘘じゃない。

そしてこのロマンは、音楽家たちも背負っていることになる。音楽家は、誰か聞き手を期待して音楽を鳴らす。それは目の前にいる大切な人かもしれないし、まだ生まれてもいない人に向けられたものかもしれない。音楽家が意図していなかったものに届くこともあるだろう。ときには人ではないなにかに。その待ち合わせは、植物とおんなじように、あまりにでっかい約束である。大きすぎて見えない、世界の約束なのだ。おんなじ遠くで待ち合わせ中!
自分でも恥ずかしさを自覚して書くのだけれど、偶然かもしれないが、音楽を聴いていると数年に何度かだけ、大好きな人とセックスをしているような気分になるときがある。それもライブのなかのほんの一瞬だけ。簡単に言えばさいこうの気分。あれはひょっとすると、風に運ばれた音楽をぼくらが受粉する瞬間なのではないか、というのはすこし出来すぎた言葉あそびになってしまうかもしれない。

音楽は、受粉だ。そう言いきってしまいたいほど、帰宅する電車のなかで、ぼくはユリイカに包まれていた。嬉しさに包まれて、電車のなかで涙腺が緩んだ。そしてこれは音楽家だけではない。映画だって演劇だって文章だって、このブログだって、いってみれば待ち合わせだ。こういう記事が、いつか誰かに届くのかもしれない。書いている限り、そんな待ち合わせは続いていく。奇跡みたいな話だ。

そんなことを考えていたら、受粉した植物の気持ちがわかるような気がした。植物は、昆虫や風に触れさせなくてはならないと思った。なぜなら彼らはあまりに壮大な待ち合わせの最中なのだから。