哲学するキチジロー

朝の通勤中、名前も知らない女性にマフラーを貸した。あのマフラーは果たして帰ってくるのだろうか。

ツイッターである方が「伊集院のラジオでフジ久が流れていた」とツイートしているのを見かけた。興味があったのでタイムフリーで聞いてみると、スコセッシの「沈黙」評に寄せてシュプレヒコール(ニューユタカver.)を流していて、流れが完璧でさいこうだった。ちなみにぼくはニューユタカのサビのピアノ(ちゃんちゃんちゃーちゃちゃちゃーちゃーちゃー)を聞くと「もういくつ寝るとお正月〜」が聞こえてくる。伊集院のあのはなしっぷりには、やはり一目置くべきものがある。しかしぼくにとってのキチジローは、もっともっと卑怯でだめで狡くて、弱くて弱くて弱い人間像なんだけど、みんなにとってのキチジローはどうなんでしょうか。キチジロートークしたい。キチジローは劇中、ある普遍性を嘆くようなことばを発するんだけれど、キチジローが発するあの論点はとても興味深く、議論の価値がある言葉だと思う。それからスコセッシがインタビューで沈黙において幕府側からすればキリスト教を持ち込むこと自体が「暴力」だったという見方を紹介していて、世界史の文脈ならまだしも少なくともこの小説においてその視点はなかったのでこれも面白かった。

スーパーのコロッケは安くてボリュームがある。ていうかコロッケなんて数年ぶりに食べた気がする。ぼくの前にいた女児がお母さんにコロッケ(大2個98円)を食べたそうに「はい、コロッケ」と渡していたのを見ていたらぼくもコロッケを食べたくなってしまったのだ。誰だって、こどもに「はい、コロッケ」と手渡されたいものなのだ。

氷点下33℃まで寝られる寝袋が安くなっている情報を見つけたけれど雪山のテント泊はまずもって当分の間やらないだろうから今回は見送った。10万円が3.7万円に、13万円が5.8万円になっていた。断じて安くはない。

母親からメールが来た。水俣の紅茶農家についてドキュメンタリーがやっていたらしく、いたく感動してメールしたとのこと。学生のときにお土産に天の紅茶を買っていったことを覚えていたらしい。天の紅茶は砂糖を入れてないのにほのかに甘く、飲み口も柔らかい。その凄さは無農薬栽培などでは伝わるはずもなく、あのとらやの羊羮に使用されている事実、それだけで泣く子も押し黙り、ついにコロッケを手渡しはしないか。

まあどんなにぼくの想像力が貧しかろうと、あの当時の水俣で、第一次産業をやろうなんて選択は、ぼくには到底勇気が出ない。差別も風評も当然のように残る時代だ。精神衛生をどう保ったというのか。心には白血球がいないから困る。心に白血球が欲しい。そして侵略してきた悪意や被害妄想を片っ端から駆逐していってほしい。水俣の人と話をしていると、その気概も才覚も人間としての格で負けている気持ちになり、さっぱりと負けを認めてしまいたくなる。水俣には暮らしにハードコアな人たちがたくさん揃っている。