好きなカルチャーを明かす勇気

目の前の人に自分がほんとうに好きなカルチャーを明かすことは、とても勇気のいることだ。自分にとって大切なほど好きなものを拒まれてしまっては、自分のことを拒まれたかのような雰囲気に包まれてしまう気がする。そんな考えがまやかしだとしても。それでも世間話で友達になれる可能性を打ち捨てて、この先ずっと交われない可能性も勝手に覚悟したうえで伝えている。そうしないと自分の好きなものと目の前の人への真摯さを守れないから。

矢野顕子が「勇気とはもらうものでも与えるものでもなく自分の内側から湧いてくるもの」と言っていたが、好きなものや好きな人に自分を託すのはほどほどにした方がよいのかもしれない。その意味で、自身の暮らしにカルチャーを内在させることは有効なオルタナカウンターだ。

そんなことを考えて下書きに放置した翌日、同期とふたりで晩ごはんを食べに行った。1軒目は高級中華屋の餃子やチャーハン、2軒目はカフェ。珍しくお酒を入れずにふたりで時間を忘れ、11時過ぎまで話をした。いろんな話をして、そのなかで当たり前のように好きな本の話になり、当たり前のように最近読んで面白かった本と、人生でいちばん面白かった本の話をしていた。話終わったときにこの下書きのことを思い出し、あっと気づく。この人は、じぶんにとって、好きなカルチャーを明かすうえで勇気が必要ない居心地の人なのか。好きなカルチャーに自分自身を託すまでもなく、自分の本心や心の根っこを互いに開きあった人だからだ。色々と悩んでいるみたいだけど、いちばん応援しているぞ、と成功を祈った。

そうだ。他人に心を開く勇気の出ない人たちにとって、カルチャーには、自身の「好き」を託すことで他人に自分自身を理解してもらう、また、自分自身を理解する、そんな役割がどこかにあったはずなのだ。ぼくはいつのまにか、カルチャーに頼ることなく、自分自身を開き、自身の本心を開くことができる、そんな人を見つけられるようになった。