ロロ「父母姉僕弟君」2017年再演@新宿シアターサンモール

(以下、ネタバレを含みます)

この作品はぼくにとって特別な作品なのだけれど、それも5年前。ぼくも演者も監督も、いろんな意味で更新されている。どう感じるのか少し不安に思いつつ、傘を差しながら足を運んだ。結果、やはり大傑作だった。率直に言えばいくつかの笑いについてはさすがに賞味期限切れを感じるシーンもあったものの、この作品の核にある宝石はひとつも曇ることなく、まさしく5年分、こころがふるえた。他人から見たそれがどれだけ歪でおかしかったとしても、ぼくは大好きで、大好きで大好きです。ロロでいちばん好き。この物語を忘れたくないから、詳細に描写して描写して描写して描写して描写してみます。ぼくなりに。

篠崎大悟さんの「なんでやねん」によって、なんども歪められた現在地がリロードされる。不条理や理不尽に対する彼のバカげているくらい真摯なツッコミに、ツッコミ以上の意味を託してしまい、みんなが笑うなか大号泣してしまった。彼のツッコミはロックンロールやパンクミュージックに通低する純度の高い抗いに思えた。じぶんの感性はなにより正直で事実のように動かないことを、目の前のツッコミに確認してしまうから、同時にその感性が誇らしくも思えた。ぼくが5年間、じぶんの好きを誇ってこれたのは、この作品の影響があったのだと思う。おかしくてもいいのだ。

つながりに関するこの演劇は、家族やペット、イマジナリーフレンド、スタメンメンバーなど、さまざまな関係性を自分勝手に結んではひらいて、こじらせる。時空を自在にトラベルしながら。この物語には、ことわりがない。不条理ばかりだ。しかし、そんな論理なんてはたして物語にほんとうに必要なのだろうか。

5年間でいろんなことを忘れた。いろんなことが起こって、覚えて、忘れて、思い出して、いろんなことが起こった。どれだけ忘れたくないことも、すべてを覚えているなんて、ぜったいにできやしないことをぼくは知っている。でも忘れてしまうのは悲しいし、それが大好きであればあるほど、忘れてしまうことは大好きだった気持ちや事実、その対象すべてに申し訳ない。忘れることによって、好きだったこと自体が嘘みたいに思えてしまうことがなにより悲しい。そして、忘れられてしまうことはもう少しだけ悲しい。たとえよろこびも悲しみも平等に忘れるとしても、悲しいものは悲しい。



叶えられないことを知りながら、それでもキッドは覚えていることを望む。ラスト、旅を終えるキッドはなるべく易しい語彙を用いて、いちばん朴訥な口調で、天球との出会いを詳細に描写する。描写して描写して描写して描写して。その朴訥さが、その純粋な思いだけが、閉ざされた時空の壁に穴を開ける。過去に戻り、未来に飛び、そしていま、天球と出会い直す。もやい直しだ。

実際には、描写して描写して描写して、どれだけ線やことばを重ねても、忘却に抗うことなどできない。しかし、こころに刻むような強い思いだけは、その到着を遅らせることができる。そして、場所やモノを媒介にして、思い出すことだってできるのだ。

拓けた地平にやさしくそびえる一本の木、漏れるひかり。その景色が5年前よりずっとずっとうつくしくて、それこそがこの物語のことわりなのだと気づく。車に乗り込み、キッドは前に進む。旅は続いていく。

開演前、ハンカチを忘れて失敗したと思ったけれど、マスクをしていたので涙のほとんどは不織布に吸い込まれていった。今日みたいなカルチャーに触れられるから、東京にいることをどうしてもやめられないのだ。劇中、隣の席のだれかが拳を握ったり、ハンカチを運んだり鼻をすすったりする仕草に、きっとお互いグッと来ていたと思う。終演後、長い長い拍手を重ねる。称賛の思いをクラップに変える。拍手を終える後の、手のひらのビリビリとした感触すらも余韻なのだ。ひとつ息をついて席を立つ。ふたつ後ろの席の女性と目が合った。すべてを分かち合うような感覚を勝手に得て、劇場を後にする。雨あがりの夜空に吹く風が早く来いよと俺たちを呼んでる。その風に乗って新宿を歩けば、いろんな思い出がめくれてくる。街に記されたかつての景色はシールか絆創膏。忘れるとか思い出すとはいったいなんなのだろう。忘れるという運動をなぞるように、新宿の街へ消えた。