2018/4/21-22 in da house @旧グッゲンハイム邸

2018年4月21-22日、in da house@旧グッゲンハイム邸。もとの生活を送るうちに、夢の時間から一週間が過ぎてしまった。

雨の中のテニスコーツ−−あの景色を覚えているか。雨が降りだしながら、誰かが傘を差して楽器を守り奏でたあの音を。4年前、in da house@旧グッゲンハイム邸での、あの演奏を。電車が通る音など気にならないほどの、音楽の底力を。聞き手に焼き付けるようなあの体験を。

2013年、2度のSLOWMOTIONから、2014年のin da house、2014年と2017年のin da house lounge、そして今年のin da houseへとつながっている。ぼくにとってはすべてが地続きだ。

2018年4月21日。朝、7時に起きる。7時に予約していた洗濯物を風呂場に干し、部屋の掃除と洗いものを簡単に済ませる。シャワーを浴びて、旅の仕度。今日は登山ではないので、テントやシュラフなど、20kgの荷物を背負う必要がない。せいぜい2-3kgそこらだから気が楽だ。要らない荷物も余計に詰めてしまった。そもそも私服を着ること自体が久しぶりすぎる。ご無沙汰してますという気持ちで服を着た。

in da houseを予約してからというもの、あらゆる仕事の疲労やストレスも、なんとなくゆるい期待を今日に向けることでやりすごしてきた。誰しもそうだろう。ハレに託して、ケを生きる。

塩屋という、この小さな町に降りるのは三度目だ。そのすべてに中川さんとsirafuさん、minodaさんがいたはずだ。線路を越えた海を臨む。会場に着く。体温は平熱。汗ばむ手前くらいの新緑の季節、光と風が心地よい。会場には既にたくさんの人がいた。ゆっくりとした時間が流れている。ビールを飲む。フードもアルコールもソフトドリンクも、ぜんぶおいしい。モヒートはなかったものの、梅ソーダがあまりにおいしすぎて、ふたつ頼んでしまった。

初日はNRQ、東郷清丸、yumbo、ザ・なつやすみバンド、STUTS、空気公団テニスコーツ。2日目は三田村管打団、GUIRO、Shouhei Takagi Parallella Botanica、 片想い、両想い管打団。

こんな晴れた日に、いとおしい洋館で、おいしいごはんを食べて、おいしいお酒を飲み、なんとなくステップを踏んでいる。空を飛ぶトンビを眺め、子どもが走り回るのを自分勝手にほほえましく思い、海に目をやる。たまに居眠りをして、気が向いたときに外に散歩に出る。ドゥワチャライク。なんでもできる。もうそれだけでいい時間だ。

パーティーはスタンプラリーじゃない。パーティーは付いて離れてを繰り返して良い。パーティーは楽しもうと試みるあなたを殺さない。他人と共有できることと、できないことがある。その場で同じ音楽を聴く、それだけを共有できれば、その他はなんでもいい気もする。他人を尊重しつつ好きに楽しめばいい。

1.タイムテーブルを明かさない
2.毎回、客席は転換で入れ換える

このふたつの仕組みによって、in da house自体が音楽や建物を中心に置きながら、あの敷地を越えた一回り大きな同心円のサイズで楽しむことを促していたように思う。7インチの上に12インチを重ねるような。
中心にある音楽を行き来することの贅沢さを思う。in da houseの敷居を超えていくこと。向かう、移動、集う。便利さと気遣いが過重に編み込まれた現代のケア社会において、意図された不便さが参加者に与える自由と親切を思わざるを得ない。

ほんとうはすべてのバンド、すべての見聞きしたことを書きたいのだけれど、ぼくには到底叶わないので大好きなバンドのことだけ、大好きだという気持ちだけ、せめて自分勝手に書き残しておこうと思う。

10周年を迎えるザ・なつやすみバンドは今年初ライブらしい。ライブハウスに行かないわけだ。お土産かごほうびみたいに、新曲をふたつもやってくれた。「喪のビート」。3年くらい前にsirafuさんがお酒を飲みながら死について話してくれたことをなんとなく思い出しながら聞いた。ちょっと変なビートに乗せながら、ド直球で愛と実存みたいなものを歌っていて、本当の悲しみの、その後に訪れるちょっとしたやさしさを思った。なくなるものと、なくならないもの。起こったことと思ったことは消えない。そう思いたくても、ぼくたちは忘れてしまう。その忘却から少しでも抗いたい気持ちが、人に書かせたり歌わせたりするんじゃなかろか。

中川さんの10周年に関するドエモいMCを挟んでから、発表した曲名が「バンドやろうぜ」。おいおい。曲名を聞いた瞬間に、椅子に座りながら正直ぶちあがってしまった。心を落ち着けるように口許に手を当てる。フジロッ久(仮)のファンとしてはこのふたつのバンドの不思議なシンクロを報告せざるを得ない。10周年のバンドが、続けることによって生まれるいろんなノイズやボタンの掛け違いを認めた上で、それでもいっしょに鳴らし続けるという選択、生きざまを肯定したような歌でした。高橋元希さんの朴訥としたパッションや、アナーキーインザ荒川と交わり合うあの構成とは対極にあるような、いまの中川さんの文脈でしか描けない、エモくて静やかな曲でした。

「それでもともに音を鳴らす」ことの根元的な喜びへの咆哮と「それでも集う」という決意のように聞こえて、ぼくはこの日いちばん嬉しかったです。続けることをファンのエゴに任せず、自分の純粋な思いに回収していたところもさすがだった。

平坦な日常を分け隔てなく大切にするということと、節目や祝い事を大切にしないということはまったく違う。ハレを歌いながらケを肯定するS.S.W.が、10周年というハレをケとともに祝福していたライブの構成もめちゃよかった。それを聞いてる自分自身も、ケを肯定できる気持ちになれた。そしてこの日のライブ自体が「お誕生日会」のような構成だったことに気づく。彼女たち自身が「お誕生日会」で祝福されるべきだから、せめてぼくだけでも、人知れず口ずさもうとおもう。


悲しい日々をいくつも越えてこれたんだね
ご褒美はいつもそこらじゅうに溢れてもっと知りたいと思うんだよ
ちょっと諦めることもあるけど!


パーティーが終わる。あたたかな昼間とは気温差がある。欠けた月が真上に昇っている。2013年のあの日を思う。2013年の6月22日、あの日のSLOWMOTIONはうつくしきひかり×VIDEOTAPEMUSIC。たしか下北沢インディーファンクラブの前日だった。あの素晴らしい日は月が海側に昇っていたのだ。

2日間の夢の時間は終わって、また日々が続く。セクハラ問題、政治とカネ、文書改竄、朝鮮半島の和平、そのずっとずっと延長に解決しきれない日々の仕事が積み重なっている。微弱な振動だけを信じていたい。カネがほしくて働いて眠るだけの生活は嫌だ。心がふるえる瞬間だけを期待して、また仕事を始める。そろそろ山にいこう。テントの中で、コーラを飲みたい。あしたは平成30年4月30日、30歳の誕生日だ。